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Spring Has Come

Spring Has Come

母娘、二人きり

その日も夜になり、私は処方された母乳の分泌を止める薬や
その他痛み止めを飲んで床に就いた。
幸いと言うか皮肉なことだが、乳房は全く張ることも乳汁が出ることもなく済んだ。
子宮収縮の痛みも何とか我慢出来る範囲だった。
しかし会陰の痛みは相当なもので、痛み止めの座薬を用いないと無理だった。

身体の痛みと精神の痛みで、その晩は短時間ウトウトした程度だったが、とても悲しい夢を見た。
目の前に、うつ伏せになった生まれたてらしい赤ちゃんがいる。
顔は伏せているのだが、私はその子は春歌なのかも、と思っている。
なぁんだ。
春歌は死んでなんかいなかった。やっぱり元気に生まれてきたんだ。
と、その赤ちゃんが生まれて間もないのに少しずつ頭を持ち上げ、
こちらを向こうとしている。
その時気が付いた。この子は春歌ではない。よその子だ。
そう認めるのが恐ろしく、必死で見るまいとした・・・
・・・ ここで目が覚めた。
夢だと分かって、私はむせび泣いた。

昨日・今日と、何とか自力で新生児科まで歩き、春歌に何度も会いに行った。
亡くなって間もなく、春歌のベッドにはぐるりとガーゼで包まれたドライアイスが置かれた。
「これ、すごく冷たいけどね。赤ちゃん(春歌)には気持ちいいから。」と助産師。
春歌と名づける筈だったことを話すと、スタッフの皆さんは以後
「春歌ちゃん」と名前で呼んでくれるようになった。
生きている新生児に接するように、ごく当たり前にあやしてくれて・・・
また、ドライアイスだけでなく、新生児室あたりから持ってきたらしい
動物などの小さなマスコットを、春歌の回りにいくつか置いてくれていた。
春歌の頭には白い包帯がカチューシャのように結ばれていた。
はじめは何なのか分からなかったのだが、聞くとカチューシャ代わりに結んでくれたらしい。
今になってみると、あれは口を開きっぱなしにさせないための処置だったのかも知れないが、
そうと気づかせないぐらい気の利いた心配りに、とても感謝した。

私が春歌を抱き上げると、傍にいたスタッフは私に付かず離れず見守ってくれていた。
亡くなった直後と比べると体はひんやりと冷たいが、今は笑っているようにも見えた。
一見、生きているのと何ら変わりがないのだが
小さな手の爪を見てみるともう青く変色していた。
小さな鼻の穴にホコリのようなものが付いていたので取ってやろうとしても取れない。
エンゼルケアの脱脂綿だと気づき、内心たまらなく悲しくなって手を引っ込めた。

助産師Tさんが、「おっぱいあげてみる?」と聞いてきた。
私の胸をはだけ、軽くマッサージをしてもらうと、黄色い初乳が滲んできた。
薬で止めたから出ることはないだろうと思っていたが、これが母性のなせる技か。
私はTさんに見守られる中、動くことのない我が子に母乳を与えた。
軽く開いた口から、まだ潤った感じの可愛い舌が見える。
決して吸いつくことはない、その小さな唇を母乳で湿らせてあげた。
「お腹の中で上手に指しゃぶりしていたから、上手に飲めてるね。」と
Tさんは言い、そっと涙を拭った。O先生に聞いたらしい。
・・・そう。上手だね。でも、もうあげられないんだよ。沢山飲んでね。

私と春歌を二人きりにしてくれたこともあり、
この時は存分に抱っこして沢山話をした。
春歌ちゃん、お外見てごらん。
雲が出てるよ。今日は曇りだねぇ。
青いお空を見せたかったな。
一緒にお散歩出来たらよかったねぇ。

頬擦りし、小さな手を握り、胸に抱きかかえて。
最初で最後の、母娘の短い蜜月だった。
これほどまでに悲しいのに甘くせつない時間。
私は春歌と話を出来て、幸せだった。
もっともっと、ずっと話をしていたかった。

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